帝國陸海軍で活躍した軍醫達U! |
| (知られざる軍醫達の戦いU) |
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| 大東亜戦争では医師達も実に多くが動員され 軍医として広大な太平洋の各地、大陸の各地 で活躍しました。そして多くが再び生きて祖国 の土を踏みしめる事がありませんでした。この ページのコーナーでは、陸海軍で軍医として 戦前戦後を生き抜いた方、戦死された方も含 めて白衣を軍服に替えて青春を散らした青年 医師(軍医)を顕彰すべくクローズアップしまし た。これまでにバラバラのページに収載した物 に新たな資料を加えて陸海軍軍医別のページ として作りました。尚、獣医科及ぶ歯科医科は 含まれておりません。 |
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海軍の軍醫 |
| (Navy surgeon) |
海軍軍医学校と海軍軍医 |
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| 現在、国立がんセンター中央病院に戦前は 海軍軍医学校がありました。 |
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| 下は現在の軍医学校と兵学寮の石碑です。 上は、海軍の軍医達が写っておりますが、 戦時中の兵学寮の石碑前です。敗戦後は、 この石碑の横に軍医学校の碑が置かれた わけです。 |
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| 海軍兵学寮跡の碑」に並んで 海軍軍医学校跡の碑 が有ります。海軍軍医の養成は明治6年の海軍病院 付属学舎を築地に設立したのに始まります。その後、 海軍軍医寮学舎(後に海軍軍医学舎と改称)となりま したが、明治13年に一度廃校になります。その後、 紆余曲折を経て、明治19年に海軍医学校として再び 設立されました。明治22年になると海軍軍医学校と 改称しされ以降、敗戦まで継続されました。 |
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| 軍医は年数十人ほどしかなることができない少数の エリートでしたが海軍は戦争が長引くにつれて軍医 を大幅に増員し、大戦末期には年間1000人以上が 養成されました。軍医の大幅な増員に築地の軍医学 校では対応しきれず、この戸塚の地に数万坪の敷地 をもつ昭和19年に海軍軍医学校戸塚分校が新設さ れました。 |
| 海軍軍医学校戸塚分校一期生の集合写真です。 |
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| 昭和19年になると軍医不足が深刻となり医科士官の急増養成 が急務となり東京の海軍軍医学校に加えて従来の横砲・海軍 軍医学校、元山・海軍軍医学校、青島・海軍軍医学校、海軍 軍医学校戸塚分校で軍医養成が継続されました。またここには 載せておりませんが昭和16年から遅ればせながら歯科医官制 度が始まり人数は医官に比べて圧倒的に少ない数であります が上記の軍医学校及び賀茂海軍衛生学校や戸塚海軍衛生学 校などで海軍歯科医官を養成し彼等は海軍歯科医少尉に任官 しました。 |
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| 海軍の軍医制度も基本的に陸軍のものと大差はありません。 現役はやはり学生時代に海軍委託生として採用し卒業と同時 に大学出は、海軍軍医中尉に医専(専門学校)出は海軍軍医 少尉に任官しました。そして海軍砲術学校で海軍軍人としての 基礎教育の後、軍医学校に入校しましたた。海軍の軍医委託 生は、月々10円程度の手当が支給されました。陸軍と違って 軍事訓練などの義務はなく、適宜、軍艦見学などの誘いがあっ たのみで楽しかったようです。これら委託学生・生徒は在学中 から基本的に海軍に籍を置いています。卒業して医師免許を取 得と同時に海軍見習尉官(少尉候補生待遇)となります。海軍 砲術学校で基礎訓練の後、軍医学校に進むと海軍軍医中尉ま たは軍医少尉に任官しました。 海軍の予備役軍医は、海軍軍医見習尉官の公募試験を受験し 合格すると軍医見習尉官(少尉候補生待遇)となり、砲術学校な どで基礎教育を受けた後、海軍軍医学校を経て海軍軍医に任 官しました。この場合は大卒と専門学校卒との区別は無く一律に 海軍予備役軍医少尉となりました。 それ以外にも陸海軍ともに、二年間だけ現役の待遇を受けて後 尚、歯科医に関して触れておきますが、歯科軍医と言う言葉は、
存在しません。医師と歯科医師は違う存在であり医師は軍医が
正式名称で歯科医の場合は、陸軍では歯科医将校、海軍では 歯科医科士官と呼ぶのが正しい。一般に医師が耳鼻科や眼科、
内科、外科、整形外科、精神科、皮膚科、産婦人科、泌尿器科 などを標榜するのは医師が専門領域、専攻した診療科目により
ますが、その選択は医師の自由意志であり、また医師であれば
全身のどの部分を診ても問題がありません。歯科医の場合は、 歯科のみに限り診療行為を許されております。従って本来、口 腔 外科などの手術や全身麻酔など全身医科管理を伴う場合は、
歯科麻酔科医だけでなく医科である麻酔科医が必要とされます。 昨今も歯科麻酔が起こした医療事故が三井記念病院で起き大 変な論議を呼びました。医科麻酔科医が麻酔科医不足を補う為
医科手術で執刀外科医等が知り得ない間に(外科医は医師免許
を持つ医科麻酔科医と思っていた)歯科麻酔科医が全身麻酔を
行い医療事故を引き起こしてしまいました。現在、麻酔技術は、
医療機器(麻酔機器・医療モニター)の高度の発達により簡単に
導入から維持麻酔が行えるようになり歯科麻酔でも医科麻酔で
も大きな境界線が無い麻酔技術となっています。こうした場合、
何でも無い症例では単に全身麻酔と手術が行われ手術終了後
に麻酔覚醒され何事もなく終われますが、思いがけないリスクが
潜んだ症例や初めからハイリスクな症例では、全身管理の医療
技術を学び医師として訓練習得していない歯科医が医師の代わ
りに全身管理を行う事は大変危険であり大変な問題点として浮
上しています。しか し医療崩壊が叫ばれる前より、産科医や小
児科医よりもはなから志望者の少ない麻酔科医の少なさは深刻
で問題視されている中で、隠密裏に歯科麻酔医の教育研修訓練
と称して麻酔を代行させている行為や公然とアルバイトさせてい
る事が全国の大病院で明るみにでてきましたが、現実的に医科
麻酔科医の数が増加しない現実の前に麻酔を看護師に 教えて
代行させるなどと恐ろしい意見まで飛び出している実態があり、
解決されない社会問題として今もクローズアップされています。
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医専の卒業証書 |
| 戦前までは各帝国大学医学部など医師数が非常に少ないため 各大学にも医学専門学校を置いて医師数の増産確保を図って いました。戦後にこうした医専は大学・医大となりました。代表的 な所で東京女子医専が東京女子医大に、下にある東京医専が 東京医大に変わりました。 |
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| 昭和17年の東京医専(新宿にある現在の 東京医大)の卒業証書です。小田中海軍 機関大佐の御子息の方です。 |
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| 昭和17年の医専卒ですと軍医で引っ張られた 可能性が大いに高いと思われます。海軍軍医 少尉に任官されたものと思います。 |
海軍 軍醫科士官募集要項と
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海軍 軍医・薬剤・技術学生募集告示及び
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| 両面印刷。昭和18年度の海軍技術学生志願者便覧 海軍技術学生生徒応募資料です。 |
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昭和18年度海軍軍医学生、薬剤学生、技術学生の募集告示と
技術見習尉官志願票(記載例のみを切り離している)募集告示 の片面印刷になっています。 |
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珍しい海軍委託軍医学生の学生服(上衣) |
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海軍委託軍医の制度は、海軍軍医を採用する目的に造られたもので、
国公立・私立大学の医学・薬学部の在学生中より採用する制度です。 在学中の学費・寮費・下宿代等は「手当」と云う名目で支給されていま す。現在も自衛隊でもこの制度は残っており、数少ない医学生がこの制 度を利用しています。 |
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この学生服の所有者は、”柳田”と有ります。服の金属釦の
図柄から日本大学医学部の人で有った事が分かります。 |
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この学生さんの服は、”SENDAI・OSAKAYA”の製造です。この当時は、
物資不足が深刻化して日本中がとても貧しかったので”着たきり雀”でかな り使い込んでおり痛みが有ります。また痛みを何度も補修して着ていたよう です。 |
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| 珍しく学生(生徒)徽章は残っている学生服です。諸図録・写真集等にも 未載です。この様な状態で出るのは、非常に珍しいと思います。昭和19年 3月通達の海軍省医務局の通知の中に学生徽章の佩用の仕方が記載さ れています。この制度に採用された学生は、種々の契約事項に署名捺印を し保証人を立てました。当時、”契約学生”とも呼ばれておりました。委託学 生に採用されますと上記の別紙”採用通知書(コピー)”に書かれているよう に生徒徽章を校服(私物)の右襟に付着させます。この徽章は、当時、一 個八銭と記載されております。 |
正木 軍医大尉の二種軍衣袴 |
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| 海軍 軍医大尉 二種軍衣袴 肩章に持主の正木の名があります。 |
海軍徳山燃料廠医務部長、兼、共済病院長
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| 高取軍医中佐は、呉海軍病院の外科部長などを 歴任し敗戦直後は、地元である徳山市(現在は、 周南市)にあった徳山燃料廠医務部長、兼、共済 病院長に徳山大空襲の二日後に赴任しました。 戦後は、徳山中央病院の院長を勤め、開業医と なられております。地元ロータリー倶楽部の会長 や徳山医師会顧問、山口県医師会顧問などを歴 任された方でした。 |
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| 高取軍医中佐は、敗戦後、復員し郷里で開業医 をされていました。奥様は、今も健在で病院も後継 が継承しておるようです。 |
阿久根 睦 海軍々医少将の一種軍衣
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| 阿久根 睦 軍医少将の軍衣です。略綬は、 イメージの為の合わせです。 |
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| 襟章の上部識別線に若干のすり切れが ありますが使用感の少ない極美品です。 服地は、上等なサージのほぼ未使用品。 裏地は、アルパカ。高級将校のオーダー メイドで有名な東京の山城屋製です。 |
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阿久根 軍医少将(略歴) 大正8年 軍医中尉。昭和12年7月 軍医大佐。 名古屋帝国大学教授兼 海軍軍医学校教官。 昭和16年10月 軍医少将。12月予備役。 昭和18年 応召、航空医学研究所員。 |
明治期の海軍大軍医(大尉相当官)の常服 |
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| 通常礼装と間違がわれがちですが通例服でなく明治 6年から16年まで使用された常服(軍衣)となります。 通例服との違いは、丈が短く肩章留め金具が当初より ついていない事です。艦隊(乗艦)勤務の時に使われ る常服に対する略服も存在します。 |
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| 明治6年当時の軍医官の階級は、最高位が 大佐相当の大医監、次いで中佐相当の中医 監、以下、少佐相当の小医監、この常服の階 級と同じ、大尉相当官の大軍医。以下、中尉 相当官の中軍医、少尉相当官の小軍医となり ます。明治9年には、最高位が少将相当官の 軍医総監が定められました。 |
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| 非常に軽い上質の生地で縫製されています。通例衣(礼服) や正衣(大礼服)を思うと非常に軽量です。やはり日常使う 常服である為と思われます。 |
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| 袖章は、相当官のため結び蛇の目ではなく直線のみの金線です。 赤の軍医科識別線は、後の時代のように絹の定色ではなくラシャ が独特の縫込みで丁寧に織り込まれております。 |
海軍 軍医の軍帽 |
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| 極美品の実物・軍医の旧型軍帽です。 |
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| 箱と軍帽内部に所持者だった軍医の名前 があります。識別線もきれいです。内部に 少し黴があります。 |
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| 竹之内の名前が刺繍されています。 |
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| 衛生科識別線の赤も退色無く極美品です。 |
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別の軍医の軍帽 |
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海軍 軍医大尉の婚姻願! |
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| 非常に面白いものです。呉海軍病院に勤務する 軍医大尉が提出した婚姻願に対して差々な部署 の判がつかれ、最後に認許の印が押されて送り 返されている書類です。 |
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| 現在、警察でも私の知る限り許認可で結婚しないと昇進が 望めないと思っていますが、今はどうなのか判りませんが、 基本的には、戦前と変らないのは面白いです。 |
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| 所属する軍医長から副官、人事局・人事部長、鎮守府長官に至るまで これでもかと判子をついて回っています。昔も今もお役所仕事の事務 は、変らないようです。溜息が漏れます。 |
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池上 保雄 海軍 軍医大佐の資料 |
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| 池上保雄軍医大佐の奥様へ海軍経理局より の俸給明細送金通知書になります。 |
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| 池上軍医大佐の少佐時代、横須賀 海軍病院勤務時代の写真です。 |
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| 左右の写真の勲章を佩用している のが池上少佐(当時)です。 |
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| 艦内勤務の頃の写真のようです。 |
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手術中の写真です。右の執刀医が |
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| 士官の負傷に際しては、写真の記録を残されたようです。 この負傷者の方は、木更津海軍航空隊の森永良彦海軍 少佐です。昭和14年10月3日午後2時35分に敵機が漢口 飛行場を空襲した時に負傷。下顎部貫通爆弾創、下顎骨 複雑骨折、額部・顔面・四肢火傷の記載があります。何故 か処置中の腕以外の施術者が削り取られています。 |
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| 右の画像は、少将の肩章がはっきり判りますので左腕を 切断された一連空司令官 塚原二四三 海軍少将(後の 大将)かと思われます。左の画像は、一連空参謀 鈴木 剛敏 海軍少佐が負傷者です。こちらも上の森永 少佐と 同様に同時刻に漢口飛行場空襲で負傷されております。 鈴木少佐は、左大腿部爆弾破片創、左右睾丸喪失兼瓦 斯壊疽、左肘部爆弾破片性断創となっています。簡単に 言えば左腕は、肘関節以下を失い、左太腿に穴が空いて 睾丸を吹き飛ばし…その結果、ガス壊疽を来たしてしま いました。下の写真も鈴木少佐の悲惨な負傷写真です。 下の写真で陰茎の下の陰嚢が完全に失われているのが 判ります。傷の状態から陰嚢を削り取るように左内腿から 爆弾の破片が突き抜けたのが判ります。瓦斯壊疽を引き 起こしていますので当時の医療状態では、助からなかっ たと考えられます。 |
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| こちらも同じ漢口空襲で負傷された鹿屋航空隊の 副長で小川弘少佐です。左大腿部爆弾破片性切 断創、右大腿部爆弾破片創兼瓦斯壊疽となってお ります。左足は、膝関節以下を失い、右足にも爆弾 の破片で負傷…これらの傷の感染でガス壊疽を起 こしていますので小川少佐もその後間もなく亡くな られたものと考えます。 |
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| 艦内の病室の大部屋(右)の回診風景と左は 外来でしょうか、真中で立つ軍医がステートを 握っています。多くの患者は、患者衣を羽織っ ています。 |
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| 海軍陸戦隊での衛生班の集合写真のようです。 中央二人の士官がおりますが左の方が池上大佐 (当時の階級は不明)のようです。衛生腕章に 軍刀には、白布を巻いています。下士官が二名、 水兵が十五名で共に完全軍装です。池上軍医と 横の士官は、一種軍装に上海バンドと拳銃嚢の 斜皮が見えます。右の士官は、袖に桜花章があ り特務士官である事が判ります。軍医は、池上軍 医だけの模様です。どうも横須賀特別陸戦隊一 個大隊が派遣された第一次上海事変での写真の ようです。 |
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| 左は、高角砲のようです。砲に砲弾を装填しており手前の 水兵が次砲弾を担いでいます。何処の艦なのか不明です。 右及び下の左右の写真は、呉淞戦闘後、呉家宅方面と 写真に記載があります。どうも昭和7年の第一次上海事変 の時の写真のようです。呉淞要塞での戦闘では、横須賀 特別陸戦隊一個大隊が2月〜3月に掛けて戦闘に入りまし たので、その時に軍医として参加した池上少佐が写した 写真のようです。 |
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| 以下の画像は、池上軍医大佐が中尉時代 に陸戦隊で上海に派遣されて御自身で撮 られた写真のようです。 |
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| 軍医中佐時代の一種・二種軍装の池上大佐 |
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| 海軍軍医学校のようです。 |
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| 右の提督は、中将時代の野村吉三郎大将 (開戦時の駐米大使)。左の方は、大将で すが誰か判りません。 |
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| 海軍病院建設の地鎮祭のようです。 |
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| 教官もされておったようです。学校は、不明です。 |
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海軍省医務局・色神表 |
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| 海軍々医が将官の持ち物です。先天性識力の異常・ 全色盲・部分色・色弱の検査に使用した式盲検査の 本です。指標は12枚付いてます。参考の為、現在で も学校検診等で使用している色盲判定の本を以下に 画像出します。昔と大して変りません! |
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海軍醫務規則本 |
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| 上の規則本は。昭和14年改正の美品です。 下のは、上に比べて痛みが表紙にあります。 |
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| 石川県出身の元海軍医少佐吉野彦助(故人)氏が所持 していた物です。各所に書き込みがなされ相当に使い 込まれております。吉野氏は、明治四十四年に石川県 志雄町に生まれ、京都帝国大医学部を卒業後、軍医と して入隊。四六年七月に復員して金沢市内で開業した が、翌月、戦犯としてパプアニューギニア(当時はオース トラリア)のマヌス島収容所に抑留され、六年後に刑期 を終えて帰国した。戦犯として南海のマヌス島収容所に 抑留された時に作詞した「星はめぐれど」は、ラジオを通 じてマヌス島にも届けられたといいます。その後、医療 関係者の協力により、「星はめぐれど」は軍歌などととも にレコード化されたが、現在はほとんど残っていない状 況だそうです。…その歌を私は、聞いた事がありません が機会があれば是非、一度聞いてみたいと想います。 |
| 以下の衛生材は、吉野軍医少佐の所持品です。 |
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| 復員船で持ち帰った陸軍衛生本廠の昭和17年3月製造 のりバ湿布用のガーゼでしょうか…未開封の新品です。 今でも使えそうな状態です。 |
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| 復員までの間に豪軍か米軍に支給されたと 思われる新品未開封の連合軍のガーゼや 包帯などです。 |
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| 戦後の品でしょうか国内のメーカー 製造の包帯です。 |
cf. 吉野 海軍軍医少佐に関しての戦後資料! |
| 上記で紹介した吉野少佐ですが戦犯としてマヌス島で抑留 生活を送るわけですがそちらに送られる前に巣鴨プリズン (巣鴨拘置所:現在では、池袋のサンシャインが跡地に立っ ており当時の面影はありません。)に収監されています。 この時の資料が以下となります。因みに戦犯の理由は、 上官の命令により連合軍捕虜に対して細菌注射を行った事 とその後の死体解剖となっております。 明らかなでっち上 げの戦犯容疑で…まともな裁判なら無罪となるべきところで すが…多のBC級戦犯だけでなくA級を含む戦犯裁判そのも のが戦勝側の明らかなガス抜きの報復行為に過ぎない事は 、歴然です。悲しい事ですが多くの名も無き将兵が無実の罪 で断罪されました。そうした意味で吉野少佐が6年の刑期を 終えて無事に帰国を果たしておりますので幸運な方と言える かも知れません。 |
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| 葉書の方は、外務省巣鴨分室より家族宛てのものです。 マヌス島へ出発に際して家族が送った荷物が宛名の記載 が違った為、戻されたという内容です。手紙の方は、は巣 鴨拘置所からマヌスへの出発が近いとの知らせ、その他 の弁護士の話などで全て鉛筆書きです。手紙の日付けは 、2月24日で消印は、昭和25年3月6日になっています。 葉書の方は、昭和25年3月8日になっています。これから 家族と別れもう二度と逢う事も適わないかもしれない人間 に記載ミス程度であれば、外務省で尽力出来た筈とも思い ます。これを受け取った家族の心中を察すると気の毒で胸 が痛む思いがします。 |
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| 外務省から送られた巣鴨留置所に入所時の 旅費送付書です。巣鴨留置所までの地図案 内もあります。 先の手紙で判りますが地元 の金沢の刑事が1名付き添ったようです。扱 いがとても丁寧だったのでお礼をと家族に宛 て記載されていました。 |
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| 海軍の軍医時代の吉野少佐。 |
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豪州より外務省を通じて家族に |
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| 元海軍 軍医少将 本間正人医師の書いた嘆願書です。 かつて戦艦陸奥の軍医長だった時代に吉野少佐が本間 少将の部下だった縁で嘆願書をしたためたものです。 昭和25年3月19日ぼ日付けがあります。日本海員掖済会 小樽病院とあります。現在も当地には、小樽掖済会病院が あります。不思議な縁ですがこの嘆願書を書いた本間先生 は、私の父の知人であります。確か御子息は、開業されて いるはずで恐らく三代目の方が継承されていたかと思 います。本間先生が現役で掖済会病院で診療されていた頃 は、亡くなった私の父も帝大の大学病院におった頃です。ま た奇しくも私の父は、旧制四高出身(金沢の旧制第四高等 学校)ですので吉野少佐の郷里である金沢に同時代に生き ておりました。…金沢は、小さな町で人口も多くありませんか ら、何処かですれ違っていたのかもしれません。…何となく 不思議な縁を感じました。 |
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海軍航空隊 航空医療具 甲(未使用) |
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| 海軍機に搭載された航空医療具 甲のデットストックです。 |
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| 単座機用の金属製小型でコンパクトな 航空医療具 乙は、良く見かけますが、 これは、大型機用の甲です。甲は、通 常、革鞄のような合成皮革で出来たも のが有名です。布製のこれは、大戦後 期の物と思われます。 |
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| 海軍で軍医されていた方が戦後も 所持されていた合成マラリア甲・乙 剤の二種類です。 |
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| 甲剤の大瓶の方のラベルは、薄れて海軍マーク等 が読み取れませんが、乙剤の方は、17.12.8と横須 賀海軍病院薬剤部としっかり読めます。 |
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| 横須賀海軍病院薬剤部製の消毒クリーム |
海軍 二号・ガス救急箱 |
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| 二号ガス救急函使用書と内部に記載され、”戦闘中化兵薬 に冒されたる時は自分で本器によりて手当てすべし”と有り ます。化学兵器(イペリット・ルイサイト)に冒された状態によ り手当ての方法が書かれています。 |
海軍 陸戦隊 小医療箱・丙 |
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| 意外に大きな物で驚きました。 |
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| 民間の会社に委託して海軍が作らせたか、民間の そうした製品を指定して買い上げた物のようです。 内部にアルマイト医療器工業株式会社の名前と共 に外科処置が出来るキットや消毒関係、注射等が 記載されています。 |
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| 海軍陸戦隊の看護兵が使用した救急箱のようです。 |
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| 戦後に薬の行商等をなされたようで中身は、 民間の薬に殆ど置き換わっています。 |
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| 看護兵の衛生(赤十字)腕章やゲートル など一部を除くと一般の民間市販薬に 置き換わっています。 |
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| 左と下の画像は、大竹海兵団時代の記念写真です。 検閲印が広島憲兵隊で昭和19年7月30日になって います。教育担当が軍医中尉と記載されていますの で初めから看護兵として教育された模様です。上の 右の写真は、普通特技章が左臂についています。 右の臂章は、一等看護兵でしょうか。この方が持主 となった(戦後も)小西進氏と思われます。中にあっ た戦後に記載された手帳や薬屋(富山も薬売りのよ うな行商と思います。)として紹介してもらう名刺など がありました。 |
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| 陸戦隊医務課 小西進 と記載があります。 |
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敗戦期に使用されたと思われる
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| 外地で使用された腕章だと思われます。 日本人國衛生部と判が捺されています。 |
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非常に珍しい都丸 俊男 海軍薬剤少将の通礼軍衣、他 |
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| 海軍軍医は良く出ますが海軍の薬剤は非常に珍しい です。しかも都丸俊男薬剤少将は、海軍薬剤官での 最高位である薬剤少将です(軍医の最高位は、軍医 中将ですが、海軍衛生部にあって薬剤と歯科では、 最高位がそれぞれ少将となります。)入手時に同時に 出ていた正衣もそうですが、この通礼衣と同様に 袖階級章は、薬剤大佐です。肩章及び襟章のみ薬剤 少将のものでしたので共に入手しました。 |
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| ポケットに蝶ネクタイとクリーニングに 際して外した金釦がありました。 |
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| 惜しい事に通礼軍衣は、山城屋のテーラータグの下に あった刺繍ネームタグが剥ぎ取られています。 |
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| 薬剤少将の肩章です。都丸の記名があります。 この薬剤の肩章・襟章・袖章で軍医や歯科との 区別はありません。 |
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| 高等文官、軍属奏任官、同待遇用の背広用の徽章 に海軍薬剤少将襟章2対、肩章一対です。 |
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| 〜都丸 俊男 海軍薬剤少将〜 ( 略 歴 ) 群馬県出身、明治27年3月14日生 大正 6 年 5 月 17 日 千葉醫専薬学科卒 大正 6 年 11 月 26 日 海軍少薬剤士(海軍軍医校乙種学生) 大正 7 年 6 月 1 日 横須賀海軍病院附(薬剤科) 大正 8 年 9 月 23 日 海軍薬剤少尉 大正 8 年 12 月 1 日 海軍薬剤中尉 大正11年 12月 1 日 海軍薬剤大尉(佐世保海軍病院) 昭和 3 年 12 月 1 日 海軍薬剤少佐(亀川海軍病院) 昭和 7 年 11 月 15 日 佐世保海軍病院薬剤部長 昭和 7 年 12 月 1 日 海軍薬剤中佐(佐世保海軍病院薬剤部長) 昭和 8 年 11 月 1 日 呉海軍病院薬剤部長 昭和 11年 12 月 1 日 横須賀海軍病院薬剤部長 昭和 12年 12 月 1 日 海軍薬剤大佐(横須賀海軍病院薬剤部長) 昭和 17年 6 月 3 日 横須賀鎮守府出仕・海軍軍医学校教官 昭和 17年 10 月 1 日 海軍療品廠総務部長・第一製造部長 昭和 18年 5 月 1 日 海軍薬剤少将(海軍療品廠第一製造部長) 昭和 18年 11 月 15 日 海軍療品廠長 昭和 19年 6 月 20 日 海軍第二療品廠長 昭和 20年 10 月 20 日 予備役 昭和 29年 4 月 29 日 歿 (享年60歳) |
| 以下は入手しませんでしたが、同時に売りに出ていた 都丸閣下の正衣袴、正帽、正肩章などがバラ売りされ ておりました。 |
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| 都丸閣下が薬剤中佐〜大佐だった昭和11年以降 に奥様が使われていた物と思われます。 |
海軍軍醫学校 第17代目校長を
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〜田中 朝三 軍醫中将〜 (略 歴) 埼玉県出身、明治18年5月9日生 明治42年11月 2 日 千葉醫専卒 12月14日 海軍少軍醫・軍医校練習学生 ↓ 呉病院附、厳島乗組、呉工廠附 明治44年12月 1日 海軍中軍醫・安芸乗組 ↓ 宗谷乗組、工機学校附 大正 2 年 5月 1日 海軍大軍醫・宇治軍医長 ↓ 呉工廠附、大和軍医長、第十一 駆逐隊軍医長、常盤乗組、佐世 鎮附、浜風乗組、佐世病附、 第五戦隊司令部附、横病附、 軍医学校高等科学生 大正 8 年 9月23日 海軍軍医醫大尉 12月 1 日 海軍軍醫少佐・軍醫校選科学生 ↓ 佐病部員/教官/佐鎮附、佐病 副官、海軍経理学校軍醫長、 軍医学校教官、米国駐在 大正12年12月 1日 海軍軍醫中佐 命帰朝、軍医校教官/監事、 医務局局員/教育局局員/ 軍医校教官 大正15年 8 月 9日 医学博士 昭和 2 年12月 1日 海軍軍醫大佐・佐工廠医務部長 ↓ 医務局局員、第一艦隊軍醫長 連合艦隊軍醫長、 昭和 8 年11月15日 海軍軍醫少将・横病第二部長 ↓ 呉病院長/呉鎮軍医長、 横横須賀病院長/横鎮軍医長 昭和12年12月 1日 海軍軍医中将・軍医学校校長 ↓ 軍令部出仕 昭和15年 3月15日 待命 3月21日 予備役 昭和16年11月 1日 支那方面艦隊事務嘱託 昭和30年12月15日 歿 (享年70歳) |
飯能醫療報國隊の旗 |
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| 昭和17年に国民医療法が公布されると各地の医師会も また戦時体制に編成されていきました。翌18年になると 各地で医療(防衛)報国隊 が結成されました。この17年 12月に公布された医療関係者徴用令で医師・看護婦等 の徴用と被徴用者の使用や給料等について規定されま した。醫療報国隊は一般の勤労報国隊と同様に時局が 緊迫化するにつれて国家総動員法より更に一歩進めて 国民勤労報国協力令と国民徴用令、報国協力令が短期 と長期にわたり、14歳以上40歳未満の男子と、14歳以 上25歳未満の配偶者なき女子によって、職場ないし 団体単位に国民勤労報国隊が組織されました。無報酬 で、時局下に必要な工場・鉱山・農業等の労働につくこ とになりました。昭和17年1月はじめて東京府下の中等 学校にも適用されました。また6月から石炭増産運動に 中小商工業者を動員することにもなりました。 |
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| 職業等から分類すると軍人・準軍人・軍属 ・準軍属・民間人に別れますが、意外と知 られておりませんが日本赤十字社救護員 や戦時衛生勤務に従事した救護看護婦、 救護医員などは軍属の扱いになります。ま た同様に陸海軍に徴用された輸送船等の 船舶の乗組船員等も軍属となります。そし て満鉄職員と満鉄関連の国策会社の職員 もまた軍属として扱われました。そして軍人 または軍属の行う業務の補完的業務に従 事した者として準軍属があります。ここには 被徴用者等 国家総動員法に基づき総動員 業務に従事した者(国民徴用令、船員徴用 令等により徴用され、国の行う総動員業務 や政府が管理する工場等の総動員業務に 従事した者等。軍需会社法により指定され た軍需会社の従業員及び現員徴用者等。 学校報国隊員、女子挺身隊員、国民勤労 報国隊員等。醫療報国隊もこの準軍属の 扱いの範疇に組み込まれると謂えると思い ます。既に醫学生以上から中年までの医師 の大半が軍醫として陸海軍にとられている 中、これ等醫療報国隊で活動をしたのは相 当に壮年期以上の医師や健康状態や運動 能力で現役軍人に向かない方と想像されま す。これ等の方々がいざ本土決戦の折には 地獄の戦場と化した国内各地で傷つき斃れ た一般国民を診るシステムだったようです。 |
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絵葉書で見る舞鶴海軍病院 |
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| 珍しい夏の海軍衛生兵の臂章 |
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| 珍しい三種軍医大尉です。右は、三種用主計少尉。 |
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